吉田かずおは生涯3つの顔で活動を続けて来ました。
芸能人として
大学時代からバンド活動もしていて、ジミー時田とマウンテンプレイボーイズに参加した後、いかりや長介とともに初期のドリフターズに参加したバンドマンでした。
その後、小野ヤスシらとともに、ドリフターズを去り、コミックバンドの草分けであるドンキー・カルテットを結成し、テレビと言うメディアの勃興期に絶大な人気を誇りました。コミックバンドの仕事の中での芸名はジャイアント吉田です。
ドンキー・カルテット解散後も、シンフォニックマッド、ブラックジャック、ジャイアント吉田とドンキーズを結成するなどしながら芸能活動を晩年にいたるまで続けて来ました。ハワイアンのライブハウスの経営を始めたこともあり、後に奥様と千葉県鴨川でラハイナというハワイアン・レストランの経営に当たっていました。
武道家として
柔道は小学生時代から始め、講道館・三船久藏師範に稽古をつけてもらっています。大学から空手に転向し、その後、世界最強武道と言われた太気拳の開祖澤井健一師から直接指導を受けた弟子のひとりとしても、とても有名です。太気拳では立ったスタイルの禅(立禅)の修行を行ない、気を練ることで知られています。この経験から気功の働きの研究も始めていました。一方で晩年は、現在に至る格闘技ブームにおいて、足立区の有力ジムのチーム顧問としても活躍していました。
催眠術師として
子供時代、道端で日常的に見られた大道芸の中に居合などと共に催眠の技が含まれていたのに関心を持ったことがきっかけで中学校時代にかけて催眠に関する書籍を読みあさって催眠技術に対する理解を深めました。当時は開業している催眠術師が全国で数万の単位で存在し学校に実演に来ていた時代もあったので、それを子供時代から見よう見まねでやってみてどんどん催眠術の世界に引きこまれて行きました。ドンキー・カルテット時代までは無報酬で催眠施術をしてステージのアガリ症などに対応してきましたが、ドンキー・カルテット解散後は催眠施術を有償で行なうようになります。ほぼ時を同じくして芸能プロダクションがついて代官山に催眠サロンを開き、施術を始めると共に催眠CDの販売も開始しました。さらにほぼ同時期にその後もずっと盟友となるAV監督の代々木忠氏に出会い、セックス催眠・催眠セックスの分野を掘り下げることになります。また、芸能活動と関係してMr.マリックの裏方として催眠術の仕込みをしていたこともあります。さらに催眠術師としての執筆活動にも取り組み、2010年に設立された一般財団法人日本催眠術協会の理事長となりました。
プロフィール
吉田かずお 一般財団法人日本催眠術協会元理事長
Kazuo Yoshida
1936年1月25日生まれ
新宿区富久町で育つ。両親と姉二人との生活。父は地図製版の仕事をしており、軍の機密に関与していた。6歳の時に東京大空襲により、千葉や青梅に疎開。高校卒業後日大経済学部に入学。 大学卒業後芸能界に入り、ジミー時田とマウンテンプレイボーイズ、初期のドリフターズに在籍する。1966年ジャイアント吉田としてドンキーカルテットを結成。1971年解散。 一方、中学時代から講道館柔道を三船久蔵師より学び、大学では空手も始める。その後に、神宮の杜で大気拳を澤井健一宗師に学んだ。大気拳草創期の弟子の1人である。以後、武道・気功を修業し、あわせて催眠術を独学で研究。催眠も武道と同じく理屈や理論ではなく、実践あるのみという道をたどる。 1985年より東京渋谷代官山にて、催眠クリニックを開設。のべ8,000人余りのカウンセリングを行なった。2023年1月2日新型コロナウイルス感染症により他界。
【 著書や出演実績等】
それに並行して、『美女催眠』(ワニブックス)などの執筆活動、『サイコアップ』などのビデオ制作、TV・ラジオの出演もこなした。なかでも『カセット催眠文庫シリーズ』全28巻は300万本以上を売り、ベストロングセラー賞を受賞した。 日本学習塾協会の特別講師を務め、教育現場での催眠法の活用法普及に努めた。一般財団法人日本催眠術協会の理事長にも就任。